Reborn-Art Festival制作委員会メンバーであり、クリエイティブ・ディレクション・ユニットとしてコンテンツを選定していく4人が語る、「Reborn-Art Festival」に至る経緯、そしてそこで目指すものとは。

「なぜ、牡鹿半島で『芸術祭』なのか?」

小林:2012年にウェブでの対談に出ていただいた時が中沢さんにお会いした最初ですよね。あの時は、政治のことから経済のこと、音楽のことまで幅広く話しました。


中沢:それが最初でした。僕は、311の後、今まで人々の意識表面に出てきて政治力になったりはしなかったものがグーっと浮上してきているなっていう感覚を強く持ちました。日本という国の、目に見えない潜在的なところで動いている力の流れがあって、そこから表面に出てくる流れは二重構造になっている。二重構造の表層では経済が中心で、物質性の方に行く力になってる。だけど、この国全体がその力だけで出来てるかっていうとそうじゃないんですよね。表に出して、新しいシステムをつくっていけたら、日本の構造は大きく変わるなという期待を持ちました。そこでいろんな活動にのり出していた頃に小林さんもよく似た考えを持って発言を強くされていました。

小林:それから何度かお会いしてるんですけど、僕が『大地の芸術祭』を見て、いろいろ考えていた時に「芸術祭ってどう思いますか?」って聞いて。そうしたら「それは有りだと思います」って言ってくれたんですよね。

浩一:「芸術祭、有りだね」って、お答えになったのは、中沢さんにとって芸術祭がどんなものだと考えられていたのですか?


中沢:国のシステムとか、資本主義システムを変化させていくということとは違う、目に見えない大きな流れが始まっていますが、そのときグロスなレベルの仕組みを変えるためには、まず小さい共同体や企業体、そういうところのミクロの構造を変えていく必要があると考えてました。そこで小林さんが考えている「芸術祭」がそっちの方向に繋がるものだと思った。ただの芸術祭じゃなくて、技術や生き方のすべてに関わる変化を生み出そうとしてるなと。そこで小林さんからその質問受けた時、僕はすぐさま「それは有りです」と応えたわけです。

小林:いわゆる現代アートの「アート」っていうのは、全く僕の専門性とは違うものだから、それを導いてくれるような、もしくはそれを東北でやることの必然に近い動きとして、いろいろな人に出会っていくことになるんですね。

浩一:その時には、もう「東北」っていうイメージはあったんですか?


小林:もちろん、もちろん。

中沢:石巻、もね。

小林:そうなんです。それはね、ap bankの江良くんが東北に入っていく中で、石巻で足場が作れるというとっかかりを持ったということと、あとap bankがもともと石巻で復興支援のボランティアを始めたってこともあります。

中沢:人間関係は土台をつくっていないと無理だと思うんですよね。それを時間をかけて努力して作っていったということが大きいと思いますね。

浩一:その中で、普通だったら、被災地でもあるし、芸術祭っていうよりは音楽祭とかエンタテインメントの方にいきそうなものじゃないですか。それがお二人の中で「いや、それは芸術祭だね」っていうのは、なんでそういうふうになったんですね。

小林:音楽祭っていうのは2、3日間でわーっと盛り上がって終わるものだけども、芸術祭の場合は、もっと長期間にわたるものですよね。音楽のいいところはもちろんあるんですけれども、「依存する」っていう体質を少しでも変えたいところもあるというか。多様な、生き物としての反応する力とか、生きるってことの力が、やっぱり個々でもっと出てこないといけないと思うんです。どんどんそういう部分が、社会が衰えていってるような危機感みたいのがあって。ややもすると音楽もそういう一つの力に依存する傾向に終わってしまう。それに対してアートって、向き合うのは自分なんですよね。その「個」として経験できる時間や空間としての場の在り方っていうのは、やっぱり被災した場所にすごく大事なことなんじゃないかって思った。あとは地方型の芸術祭では、地元の人たちがいて、ボランティアの人たちがいて、そこに訪れる人々に「来てよかったな」と思ってもらえるように、自分ごととして参加していくことっていうのは、音楽だけではなかなか味わえないんじゃないかなって思ったということはありますね。