中沢新一さんをお迎えした前回に続き、今回は4名もの各界の重鎮をゲストにお招きしての『Reborn-Art Dialogue vol.02』。一筋縄ではいかない論客たちの、美術と世界にまつわる熟練の丁々発止。ぜひご一読ください!

 

もっと内側から力を加えるような何かを

小林 さっき(控え室で)聞いたんですが、ここにはよく来ていただいているとか?

津田 そうなんですよ。こういう尖った場所が渋谷とかじゃなく代々木にあるっていうのもいいですよね。で、今日は東北で開催される『Reborn-Art Festival』にまつわるトークイベントなんですが、それをここ(代々木VILLAGE)で開催するというのは小林さんとしてなにか考えがあったんですか? 仙台や石巻でやるという手もあったかと思うんですが。

小林 僕がここを作ったときに考えてたことが『異質なものが出会える場所』ということだったんですね。西畠清順にしても僕にしても、異質なタイプがバンドみたいにインタープレイを行うようなイメージで。それがいま東北で起きていること、僕が感じていることに似ているなと思っていて。震災で多くを失った人がいて、そこに集まってきた人がいて、異質なものが出会ってなにかが起きようとしている。そういう自分の原点というのかな、ここを『Reborn-Art Festival』の東京サテライトにしようと思ったのは。

津田 小林さんの場合、音楽のフィールドでまず<作品>を作ることでずっと力を発揮されきて、そのあとap bankで音楽フェスという<場>を作りましたよね。ただ、フェスというのは<場>ではあるけど、その場で終わってしまう一回性のものですよね。もちろんその良さだったと思うんですが、今度はここにこうしてずっと存在し続ける施設という、フェスとはまた違う<場>を作った。そこになにか繋がりというのはあったんですか? この場所をつくった理由を教えてください。

小林 ひとつのことに長期間入り込む必要を感じたからというのがあります。ヒットチャートという生き馬の目を抜くタイプのシビア さも、それはそれでおもしろくてやってはいたけど、もっと内側から力を加えるような何かというのに惹かれたんだと思いますね。フェスをやっていくなかでそう感じた偶然のきっかけというのもあって。

津田 それはどういう?

小林 フェスを始めて3年目の2007年のap bank fesが、3日のうち2日間が台風で中止になったんですね。本当にはっきりと覚えてますが、今はくなってしまった『つま恋』のホテルのなかであのときはスタッフたちとずっと打ちひしがれてました。経済的損失も大きかったのと同時に自然の脅威に対しての無力感というのもまざまざと感じて。幸い3日目に天気は回復して開催にこぎつけたんですが、その日の朝でした。時を同じくして新潟で中越地震が起きたんです。

津田 ああ、柏崎刈羽原発が火災を起こしたときですね。

小林 そう。僕ら自身がおなじように自然の脅威に晒された直後だったから、とても他人事だと思えなくて。それで、フェスが終わったあとに支援活動として現地に入ったんです。それが震災復興支援というようなものに関わる最初のきっかけでした。

津田 東日本大震災のときもかなり早い段階で現地入りされたんですよね。

小林 僕と同郷なんですが『アル・ケッチァーノ』の奥田(政行)くんが、たしか庄内町(山形)と南三陸町が姉妹町かなにかという縁だったのかな、緊急車両の通行証が取れたっていうんで(※編註 当時は自動車での被災地への行き来が制限されていた)、すぐに「じゃあ行こうよ」って、(2011年の)3月18日かな、東京のウチのスタッフたちとトラックに鍋だのなんだのを載せて東京と庄内からカレーの炊き出しに行ったんです。

津田 行動するまでの決断が早いですよね!

小林 そうかもね。でも、一度それがどういうことかがわかってしまうと新潟でも東北でもあとは体が反応するだけってかんじだから。こないだの熊本(地震)のときもそれはおんなじで。

津田 その小林さんが、ここ4、5年ですかね、東北で芸術祭やりたいと常々仰っていたのは僕も耳にしていましたが、ついに今年それが実現することになりましたね。

小林 ちょうど今は開催直前のあれやこれやで、もっと誰か早く教えていてくれていればというようなことがたくさんある状況なんですが(笑)。ここにたどり着くまでも、もちろんいろいろ躓いたりぶつかったりしてきて、地域に根ざして芸術祭を作っていく大変さや難しさというのを実感はしているんですが、そんな大変さもやってみたいと思う気持ちに僕をさせてくれた、まさにそれを体現してきた大先輩のあの方を、そろそろお呼びしましょうか。

津田 そうですね。それではお出でいただきましょう。北川フラムさんです。

北川 どうもどうも。

小林 ここはBARなんでお煙草吸いながらでも。

北川 ああ、どうも。あの、まず言っておくとね、さっき言ってた2007年のは「中越”沖”地震」だね。「中越地震」は2004年。

津田 ああ、そうでしたね。

 

地域が元気になるのに役に立たないなら辞めちまおうと

北川 というのもね、細かいようなんですけど、僕自身がその年に<ある変化>を感じたのを覚えてるからなんです。僕が『大地の芸術祭』を始めたのが2000年なんですが、最初はみんなだいたい反対だったんだすよ。地元の人も、議会もね。スタート前の討議で6市町村から100人の議員が集まりましたけど、その100人全員が「反対」でした。それが、2007年にその「中越沖」の方の地震が起こったころになるとね、そういう地元の人たちのムードがなんだかちょっと違ってきてたんです。

津田 それはどういう?

北川 2007年はちょうど芸術祭は前の年に3回目が終わっていて、次が2009年の予定だったんだけども。そこへ地震がきたんですね。もちろんたくさん被害があって大変だ大変だというかんじではあったんですが、地元の人たちが落ち込むのでもなく「そんなこといってる場合じゃない、次の芸術祭がちゃんとやれるようにはやく準備しなきゃ」といって、すごく前向きに復興へ向かっていったかんじがあったんです。

津田 次にやることがあるのとないのとの違いですかね。

北川 そうなんですね。だからそういう意味では、政府がいまのこの国にオリンピックをセットしたのも理解はできるなあ、と。

津田 いまや地方開催の芸術祭の代表格である『大地の芸術祭』ですが、最初の段階でもアートが地域起こしになるという確信はあったんですか?

北川 やれればいいなあ、くらいのもんですよ。2000年が初回で、その準備しはじめたのが1996年くらい。僕は人より少しはわかることが美術くらいしかないから、こういう地域が元気になるのに美術が役に立つならやってみよう、役に立たないなら美術なんてやめちまおう、という気持ち。それが出発点でした。

津田 でも、さっき仰ってた地元の反発も最初はかなりのものだったんですよね。

北川 ええ。外国人の芸術家が村に来て作品を作るなんて気味が悪い、とかそんなかんじでしたね。(おもむろに会場の客席に向かって)このなかで同窓会に行かれたことのある方ってどのくらいいますか? (パラパラと挙手するお客さまに)それはあなたがたは自分の生活に満足してるということです。現状に不満な人は同窓会なんて行かないもんですからね。自分に誇りを持ててないとね。

津田 まあ、普通はそうですよね。

北川 「越後」というところはね、「越」の国の「後」というそもそも「奥まったところ」を指しているわけですが、「越後妻有(えちごつまり)」となると、そのまた奥。「妻が有る」とは書くもののそれは当て字で、要するに「とどのツマリ」ということなんですね。いちばん貧しいところです。貧しいがゆえに越後というのは、日蓮にせよ、親鸞にせよ、世阿弥は佐渡でしたが、とにかく中央に居られなくなった人がくる場所でした。土地は急斜面が多く米作りにも向かない。それでもみな苦心惨憺して棚田をこしらえてがんばった。しかしそれが近代になると今度は効率が悪いだのなんだのと意味のないことのように思わされる。みんな社会から5、6周遅れてるかのように思わされる。そんな失意のまま地元の人たちは亡くなっていくんですよ。こういう場所でね、美術というものが地域のひとに誇りを持たせるのに役に立たないというのなら、いったいなんの美術なのかと思ったんですね。

津田 異質なものを排除する閉鎖的なタイプの地方コミュニティが、国や行政から見捨てられて<棄民>のような扱いを受ける。この構図は東北の現在や今後ともつながっていく話ですよね。

北川 棄民。まさしくそういうことだね。北海道なんかは戦前戦後のソ連との緊張関係のなかである程度の予算が投下されてきたという特殊な歴史があるけれど、東北というのはこれまですさまじいまでに「棄てられて」きました。「北」というのは大きくはそうい背景を抱えていますね。

 

「地下2階」と「本質をめぐる旅」

津田 明治維新のときも亡くなったのはだいたい北の人だったり、2度の大戦で動員されたのも東北の農家の息子などが多かったといいます。

北川 開拓にしても北の人たちがよりもっと北へということでしたね。アイヌアテルイなんかとの関係性がせめぎあうところで。そのなかで、詩歌の世界ではそんなフロントとしての東北だけが持ち得た「情緒」というのもあります。宮沢賢治の「オホーツク挽歌」にせよ、小林旭の「北へ」にせよ。

津田 「津軽海峡冬景色」とか。

北川 そうですね。

津田 ただ、情緒はさておき、東北の復興に於いては政府としてはすべて震災から10年間という「期間限定」なんですよ。いまはまだ予算も出ているからいいけれど、あと数年たったときに果たしてどうなるか。国の政策を見ているとすでに見捨てる気マンマンですからね。準備をしているようにしか思えない。そういう意味で、越後妻有でフラムさんが培ったバトンが石巻での小林さんに渡ったっと僕は期待しているんですけど。

小林 ええ、ある意味そうですね。

北川 僕は熱烈に小林さんを支持しながらもいまのところなにも手伝えてないから、本当は今日もこんなふうに出てくるのはどうかと思ったんですがね、いちおう言っておくと(笑)。

小林 (笑)いえいえ。フラムさんはすごくアカデミックな要素を持ってるかただけど、そのうえでいまのお話のようにずっと目線が低いというか。それは「庶民」という目線でもあるんですが、それとはまたべつの精神的な目線の低さ、視点の深さというようなものがある気がしています。お好きかどうかわからないけど、村上春樹が言うところの「地下2階」の話というのがありますよね。ぼくらの生活の1階や2階は外ヅラとしてのパブリックな面だとして、地下1階は誰しもが持っている心の傷だとか、親との確執やトラウマの世界で。だいたいみんな自覚できているのはそこまでなんだけど、じつはその下には「地下2階」の世界があって。それは簡単にアジャストできるところではないけれど、そこを通じてしかやりとりのできないことというのがある、という考えですね。

北川 ラスコーの壁画の世界のようにね。そういえば村上春樹さんといえば昔、千駄ヶ谷のへんでジャズのレコードをかけるようなバーをやられていてね。ちょうどここに似たかんじでした。

小林 話には聞いたことがありますが、フラムさんは実際に行かれてたんですか?

北川 多少知ってる、くらいですけどね。その当時に山下洋輔さんと知り合ったりして、ちょっと個人的にひっくり返ってた時期です(笑)。あと、地下2階といえば、カオス*ラウンジという若い人たちがいるんですが、彼らが瀬戸内(国際芸術祭)でやったのもまさに地下2階的な穴倉を掘る作品でしたね。彼らの場合は案の定、賞賛を補って余りある批判が地下2階から湧いてくることになるわけですが(笑)。

津田 瀬戸内といえば小林さんがライヴをやられた犬島もありましたね。

北川 大正年間に建てられた精錬所がある小さな島で、当時は4,5千人が暮らしていたといいますが、今は40人を切りました。そんな島で小林さんにコンサートをしていただいて。

津田 雨だったんですよね。

小林 そうか、津田くんも来てたんだね。

北川 あれは壮観でしたね。小さな島にみんな船で乗り込んでくる。演る方も観る方も。

小林 「本質をめぐる旅」という『Reborn-Art Festival』を象徴するキーワードはフラムさんからいただいたんですが、あのときはそういう実感がたしかにあったかもしれないですね。

津田 フラムさんも小林さんも肩書きは「プロデューサー」ですし、どこかで似た捉え方をしていたんでしょうか。

小林 プロデュースというのは、基本的には詳細なところに入り込むことと離れて俯瞰で見ることのバランスだと思うんですけど、そこにもうひとつ加えるとすると「必ず自分の体を通す」ということが必要だと思うんです。机上の空論ではまったくダメで。それは芸術祭というものの有り様としても言えるのではないかと犬島のときに感じたところはあります。

北川 それはそうですね。

小林 そういう意味で、僕は演る側ではありましたけど、あの犬島でのライヴはいまの『Reborn-Art Festival』につながる萌芽みたいなところはありましたね。

(第2部に続く)