この夏、宮城県石巻市で開催される芸術祭、Reborn-Art Festival。
「多様な循環」をつくりだすことを目的に、2ヶ月半にわたって「アート」「音楽」「食」の祭りがくりひろげられます。
「アート」「音楽」「食」がそこに咲きほこる花だとしたら、根っこにフォーカスするのがここにご紹介する「LOCAL」。
「LOCAL」では、石巻・牡鹿半島を歩き、土地に培われた「人が生きる術」を掘り起こすこと。それらを集め、学び、共有し、いまの「Reborn-Art」を形づくること。そして、これからの社会や生き方、暮らしのあり方を考えることに取り組んでいます。
これを進めているのは、日知舎の成瀬正憲。山伏の修行を重ねながら、土地の声に耳を澄まし、これからの地域を見すえた多様なプロジェクトを展開しています。
Reborn-Art Festival 2017で、LOCALはみなさんを牡鹿半島の旅へと誘おうと様々な企みをしています。今回お届けするのは、旅の準備に欠かせない、旅先のお話。
牡鹿半島に初めて訪れる方もいるでしょう。どのようなところなのでしょうか。どのような人びとが住み、暮らしが営まれてきたのでしょうか。ここで芸術祭が開かれることは、どのような意味をもつのでしょうか。
石巻・牡鹿半島の歴史、文化、生業、暮らし、技術、信仰などの聞き書きをもとにしたルポルタージュを随時掲載していきます。
半島を旅するつもりでどうぞご覧ください。それはきっと、「人が生きる術」としてのReborn-Artを探す旅になるはずです。
はじまりは一つの出会いから
牡鹿半島を歩いていたある日。食堂にいた僕は、奥の部屋からひときわ元気な声がこぼれてくるのを聞きました。江刺みゆきさん。牡鹿半島の荻浜(おぎのはま)集落に住み、牡蠣養殖業を営むお母さんでした。
牡鹿半島は、海と陸が幾重にも入り組んだリアス式海岸でふちどられているのが特徴です。沖からの波は陸に近づくにつれ複雑な海岸線にはばまれて静かになり、そこに養殖業に適したおだやかな漁場が広がります。なかでも荻浜は養殖牡蠣漁が盛んな浦。集落の日々は海とともに巡っています。
江刺みゆきさん(以下、江刺さん):とにかく潜るのとか、泳ぐのが楽しみでね。小さいときなんか、本当に”河童”だった。3歳ごろから泳いでたからね。昔は海草がいっぱい生えていてさ。夏休み、朝ご飯食べているともう暑いからさ、すぐに父親とテングサ採り。いっぱい採れたんだよね。そいづ潜ったりするのが楽しみでね。
眩しさのためか、懐かしんでのことか。細められた目には荻浜が照り返し、”河童だった”その姿さえ映っているようでした。湾につながれた漁船の近くまで歩くと、日陰をつくるように額にあてた手を、前方の岸壁に向けて話してくれました。
江刺さん:あの上に“公園”って呼んでた、山の平らなところがあってね。そこでゴザ敷いてさ。家から飯台を持ってきて、勉強したりしてね。朝9時頃から10時頃まで。10時過ぎるとそろそろ温かくなるからね、水着着てね。崖から降りて、泳いで。そしてまた戻って来て。ここで昼寝をしたりね、家さ帰えんねで一日ここで遊んでたの。夏休みの天気の良い日だのね。みんなでね。昔はこのへん砂浜だったからさ。
始めは正座などしていたのでしょうが、セミの声が聞こえる頃には鼻の頭は汗を帯び、鉛筆も宙を踊り始め、窓の向こうの景色が輝きを増せば、いよいよ砂浜にいくつもの黒い影が踊り、歓声と水しぶきがあがる―そんな光景が目に浮かんできます。
滑り降りた岸壁は中々の高さで、男女問わず小学生が降りたと聞けば、腕白さ加減がうかがい知れようというもの。中には怪我をする子もいたでしょうが、何かあったら自分たちで対処していたようで、そこには子どもたちだけの時間が流れていたことでしょう。
江刺さん:夕ご飯食べてからね、海さ泳ぎさ行って。昔うるさくないっちゃ、学校だのも。親も何ともしないでね。今でから騒ぎだよね。そんで海から上がってきてお風呂に入って寝るっていう感じって。それが楽しみだった。
浜は海と陸の交わるところ。海岸線はたえまなく揺れ動き、海と陸の境目はつねに切り替わります。人にしてみれば、海にも陸にも行き来できる自在さや融通さを持つことができる空間でした。
江刺さんから「河童だった」という言葉がでるのは、そんな浜に育ったからにちがいありません。たとえでなく、本当に”河童”だったのだと思います。一日中海に浸かり、採ったり潜ったりが何よりも好きな子どもは、人と人でないものの中間に位置するような、あるいは人と人でないものが交わったような、そんな存在である”河童”といえるだろう。幼少期の自分をそのように位置づけて江刺さんはいうのでしょう。浜で、人は”河童”にもなりえたのです。
海に生きるということ
東日本大震災で、荻浜集落は46軒中44軒が全壊しました。江刺さんは現在仮設住宅に暮らし、高台には息子さん夫婦と暮らす家が建設されています。
江刺さんはこれまでに六つの災害に遭いました。一つは昭和22年に荻浜集落に発生した大火。二つは昭和35年のチリ地震津波。そして集落を流れる川の氾濫に三度見舞われました。
昭和22年、当時5歳の江刺さんは、あるお宅の大きな納屋で10人ほどの子どもたちとままごと遊びをしていました。そのとき突然、その家の御婆さんが大声で叫んだといいます。「火事だ、逃げろ」。火事の意味すら知りませんでしたが、子どもたちと浜の先端にある灯台へと逃げました。家のような建物があったからです。携帯電話のない時代ですから、集落の大人たちは行方知れずの子どもたちをどれほど探したのかわかりません。一夜明け、青空の広がった翌朝。子どもたちは、役場近辺の建物を残して、全焼した集落に戻りました。
江刺さん:それで、昔のようなバラックを自分の土地に建てたんだよね。建ててからしばらく入っていたんだけれども、そこを利用して増築したの。そしたら、今度はチリ地震でやられてしまってさ。昭和35年だったかな。バラックを持っていかれてね。それでも持っていかれたのは4、5軒なの。立て替えたところは残った状態だからね。泥だの何だのが入ったところはみんな直して。そして私たちが結婚した時、私の実家の土地に家を建てたわけ。だから結構いろいろな目にあっているんだよね。
大火で焼かれ、再建し、津波で流され、再建し、また津波で流され、再建する――想像が及びもつかない江刺さんの来し方は、じつに事もなげに語られました。もちろん、被災が何ともないことだ、というのではないでしょう。だとしたら、その淡々とした語り口や、どこか傍から見ているような眼差しは、どこから来ているのでしょうか。理解の及ばなさを感じながら、よくよく考えるうちにふと、そもそも「日常」であったり、「家」というものがもつ意味や、江刺さんの大切にしていることが、ずいぶん異なるのではないかと僕には感じられたのです。
江刺さん:やっぱり浜が一番良いよね。なんぼ、津波がきたとしてもね。
あったものは痛ましいし、今度で全部やられてしまったけど。津波がきても、命が痛ましかったから、まず体だけ逃げればいいんだもの。だって生きていればさ、なんとか、とにかく、生き延びるんだから。命があることが一番大事だから。
家を失ったら建てればいい。命さえ助かれば生きていける―もちろんそこには、亡くなった方々への思いと、それが自分でもありえたかもしれない、という考えが、語られないままにひかえています。そのうえで言葉にあらわれた心の源をたどっていくと、やはりそれは、日々を波にあらわれる「浜」に育った感覚に由来するのではないかと思われます。
さらにいえば、命だけが助かったのでは生きていけないはずであり、命が生きていくためにはそれが育まれる場所、「海」がなければなりません。江刺さんの言葉から感じられる、持つことへの執着のなさや、壊れてもつくればいいという考え方は、再建を後押ししてくれるほどの「海」があるからこそ、生まれるのではないでしょうか。いいかえれば、江刺さんの「命さえ助かれば」には、言わずもがなのこととして、この「海」が含まれているのでしょう。“河童”が触れていたものは、地上にだけずっと暮らしてきた人が経験する世界の向こうへ広がっていたのです。
浜から見える循環
豊かさの源泉としての海。暮らす人々の糧を生み、贈り、育むと同時に、津波を運び、集落さえ飲み込んでしまうもの。生も、死も、そこに巡るもの。「浜っこ育ち」にとって、海はそのような存在なのだと思います。ですから海に対しては、肯定も否定も、善も悪も、およそ人間の物差しをあてることができず、人はただ”そのようなものとして”海に向き合い、向き合うことを前提に、暮らしを営んできたのでしょう。
江刺さん:海で流されて、亡くなるとさ。タコとかね、人間のあれを食べるっていうよね。魚だって食べていると思うよ。ね、繰り返し、そういう感じだと思うね。
だって、昔だって糞尿海さ流して、我々はそれを網で獲って食べたりしてたんだものね。だから、同じ繰り返しなのかなと思ったりするんだけれどもさ。
牡鹿半島には、浜から山にあがる斜面に耕された小さな畑があり、かつて日本列島のどこでも行われていたように、肥料として人の糞尿を撒いていましたが、荻浜では数十年前まで、船に積み沖にも捨てに行っていたそうです。人の排泄物を海の生き物が食べ、その魚を人が食べる。震災のとき、遺体も同じだっただろう、と江刺さんは考えます。そして、ことはそのように繰り返されてきたのだろう、と。
ここでいわれる「繰り返し」とは、浜の暮らしと記憶に根ざした、江刺さんにとっての「循環」にほかならないのではないでしょうか。半島のリアリティから立ち上がる「循環」がそこに見えてきます。
排泄物と食物は一見まったく異なっていても、食物摂取の入口である口と、出口である肛門とは一つの管でつながっており、排泄物と食物は表裏一体のもの。私たちの食はその表裏が織り込まれた立体的なもの。同様にして海の生物と人もまた一つの循環の中にあり、私たちの存在とは重層的なものです。
海と陸、人と人でないもの、喪失と再生、食物と排泄物、生と死。
江刺さんの言葉を辿り、出会ってきたそれらは、相反するものでありながら、一方を排除して他方を選び取ることができない、両義的なもの。幸も不幸も、すべては海からやってくるのです。牡鹿半島に人々は、それと向き合って暮らしてきました。そこに重ねられてきた知恵と技術こそ、「Reborn-Art=人が生きる術」なのではないでしょうか。
もちろん、かつての暮らし方も、それが培った身体感覚も、世界を見る眼差しも、生活文化も、今日のものとは異なっています。それを取り戻そうとするのではなく、現代の只中で両義的なものとのかかわりを形成すること。それが重要なのです。そのために、いくつもの生きる術を拾い集め、鍛え上げる旅が、いま必要なのでしょう。
僕らの未来のための足がかり
先の大震災から6年が経ち、当初ことあるごとに叫ばれた「復興」も、今ではあまり聞かれなくなってきました。しかし被災した土地の日常では高台への住宅移転や、湾岸の超大型防潮堤建設などが着々と進んでいます。
江刺さん:何で防潮堤を建てるのかなって。今、かなり高くしているっちゃ。やらないでけろって頼んでも、県ではやるっていっているからさ。渡波とか石巻も、みんな家だの流されたのにその場所に家を建てているっちゃ。なんでこっちの半島だけは海の近くに建てては駄目なのか。一方的な考えで進められても、納得いかないし、腹が立つよね。
防潮堤が高くなって、海の見えない状態になるのは本当に困る。浜で仕事をしてて海が見えないのって一番不安だよ。「いらない」って何回いってもね。結局建つんだっちゃ。
半島の生活文化を育んだのは「浜」という場所でした。人が”河童”になれたのも、大いなる「循環」の感覚を持ちえたのも、「浜」があったからです。だからこそ、巨大な防潮堤によって海と陸が分断され、その自在さや融通さをもった空間が制限されてゆくのに対して、江刺さんは真っ向から反対するのでしょう。それはまったく道理ある主張だと僕は思います。かといって若い世代は、自分の子ども、家族をあのような目に遭わせたくないという気持ちがあり、それはもちろんのことだとも思うのです。引き裂かれる「現在」の中で、しかし誰もが、どこかの「現実」を選び取っていかなくてはなりません。若い世代を思い、江刺さんは新しい家に暮らすことを選びました。
先の大津波に対し、僕たちの社会が持てる技術、政治、思想は、「湾岸に巨大な防潮堤をつくる」という解決策を与えることしか、できませんでした。
今は、そうでしかなかったとしても。
「浜」の永い時間を想うとき、巨大防潮堤さえその一時の姿であるかもしれません。自然は、人がいてもいなくても、何をしてもしなくても、ただそのはたらきを続けていくものです。そのとき、僕たちにできることは、現状の追認でも、分断と対立を深めるのでもなく、その遥か先に、相反するものが行き来し、交わり、回帰するあの場所を足がかりにして、現状とは別のあり方を構想し、つくってゆくこと。そこに賭けるしかないのではないでしょうか。
僕たちが置かれている状況には、常にまだ実現されていない別の状況が息づき、呼びかけています。僕たちは耳を澄まし、その呼びかけを聞き取り、「現在」を編み直してゆくことができるはずです。
「多様な循環」をつくりだそうとするReborn-Art Festivalに、牡鹿半島からの問いかけは鳴り響きます。
荻浜 Oginohama
地名は昔、荻の花がよく生い茂っていたことに由来。古くから牡鹿半島における漁業基地の一つで、江戸時代は穀船などの中継港、避難港として、明治から大正時代にかけては日本郵船定期航路の寄港地として栄え、全盛期には旅館10数軒を数えた。天然の良港で昭和30年頃からは牡蠣養殖業が盛んになり、現在の主要産業となっている。東日本大震災後は、仮設住宅や石巻市街地の仮住まいから通いながら、漁業が営まれている。’17年のReborn-Art Festival 2017では牡鹿ビレッジが建設される予定。