『Reborn-Art Festival』は、宮城県石巻市と周辺市で開催されている。なかでも特に多くのアート作品、イベントが展開されるのが、石巻市の南側に広がる牡鹿半島だ。会期を前に、複数のアーティストたちが現地入りし、制作を始めていた。そこで私たち取材陣も、とあるアーティストに出会うため、東京から日帰りの小旅行に出かけることにした。
そのアーティストの名は、バリー・マッギー。アメリカ・サンフランシスコ生まれ、「TWIST」というもうひとつの名前(タグネーム)とスイッチしながら、コンテンポラリーアートとストリートアートの世界を行き来する人だ。
彼が石巻入りした日、昼到着のはずが着いたのはとっぷり日が暮れてからだったとか。なぜそんなに遅れたのかとスタッフが尋ねると、途中で2か所もサーフィンに立ち寄ったからだという。
そんな自由奔放なバリーに、果たして会えるのか……? いろんな意味のドキドキを抱えた私たちを乗せたタクシーは、初夏の半島をひた走るのであった。
バリー・マッギーは、我々取材陣を受け入れてくれるのだろうか……?
スタッフから伝えられたバリーの居場所は、牡鹿半島東部の海岸近く。その名のとおり、野生の鹿と日常的に遭遇するという県道は、行けども行けども森と山。行き交う人も車もほとんどいない。
かつてなく不安が高まりつつあったその瞬間、パッと視界が開け、見晴らしのよい広場にたむろする数人の若い男たちを発見! ひときわ背の高い、帽子にTシャツ姿の人物は、バリー・マッギー本人だ。
「ハーイ! 日差しも強いし、なかで話そうか」。そう言って彼が指さしたのは、2畳もないくらい小さな山小屋。『Reborn-Art Festival』(以下、『RAF』)のための新作は、この小屋にペインティングを施したものになるのだという。「作品に手を触れていいんですか?」と戸惑う私たちを尻目に、バリーはさっさと小屋に入って「Come in」と声をかけてくる。
バリー:けっこう涼しいでしょ? 本当はもっと下の海に近いところに、この小屋を置きたかったんだけど、この辺りが国立公園で、ルールとしてそれはダメなんだって。
結果、「大の大人四人が体育座り in 手作り山小屋」という、だいぶシュールな状況ができあがったものの、バリーがフレンドリーに迎え入れてくれたことに、我々はホッと胸をなでおろす。
世界で活躍するバリーが、なぜ今、石巻で作品制作をしようと思ったのか?
バリー・マッギーの作風は、快活で、自由とユーモアに溢れている。彼のアイコンとも言える「陰鬱そうな男の顔」のグラフィックアートには大きなインパクトがあるが、それがたくさんのガラス瓶、あるいは壁面にバカでかく描かれると、自分が抱いている世間への不満や怒りが、けっして自分ひとりだけのものではないという不思議な安堵と脱力感に包まれたりする。
もちろんそこには、経済格差や人種差別へのアゲインストの意志が含まれているが、頭でっかちな強硬さではなく、しなやかさや楽観によって状況を変えていこうとするポジティブさがある。それこそが、マッギーの根強い人気の理由だろう。
バリー:石巻にはもう行った? 僕はあの街のエネルギーが大好きだ。古い建物や壊れているものがたくさんあって、東京とは全然違う。『A Wrinkle in Time (五次元世界のぼうけん)』みたいに、時空が少し違ったように思えるんだ。もちろん、そういうことになってしまった原因のことを好きだと言ってるわけじゃないよ。
たいていの場合、アーティストやクリエイターがまずはこういう場所に訪れて、なにかをしようとするんだ。ディレクターのコーイチさん(和多利浩一。ワタリウム美術館CEOであり『RAF』のディレクター)は、この街にさらにエネルギーを投げ込もうとしたんだと思う。『RAF』は本当に素晴らしいプロジェクトだよ。
『A Wrinkle in Time』は、マデレイン・レングルによるアメリカ児童文学の傑作。主人公の少女が、行方不明になった父親を探して、仲間たちと一緒に異次元の世界に旅立つ物語で、個性的な感性を持つ子どもたちが、さまざまな人と場所を訪ねながら発見と成長を重ねていく。たしかにその道行きは、アーティストのクリエイションに重なるところが大いにある。
バリー:アメリカにも、産業が衰退してどん底になってしまった街がある。でも、今はアーティストたちがそういった街に住んでいるんだ。
たとえば、ペンシルバニア州にあるピッツバーク近くの工業地帯は、工場が閉鎖して以降、多くの人々が立ち去ってしまった。ところが、たくさんのアーティストがそこに入って、クリエイティブスペースを作り始めたんだ。川が近くに流れているから農業を始めて、昔のような生活を送っている。だから、再生に向けた石巻の取り組みもとっても興味深いんだ。君もそう思わない?
「Don’t you think?(そう思わない?)」はおそらく彼の口癖で、自分の意見を伝えた後に、他の人たちの意見に耳を傾けることが、バリーなりのコミュニケーションの流儀なのだと思う。それは対話というよりむしろ「共話」に近い。それぞれの話し手ごとに主張を完結させ、意見を交換するのではなく、話し手と聞き手がゆるい流れのなかで協力し、主題を組み立てていくような感覚があった。
極小の小屋に、四人の大人が文字通り「膝を突き合わせる」くらいの距離で会話していると、自然と秘密を打ち明け合うような親密な空気が流れ出す。おそらくこれも、バリー流のコミュニケーション術なのだ。